見た目にだまされないために

動画は便利だけど闇雲に妄信すると危険という話を前にしたことがある。
今回はその続き。

動画を見ながら練習してるけど、イマイチつかめないという人は読んでみてほしい。

そもそも、俺は理屈が大好きだ。

でも、理屈の奴隷ではない。

理屈は、結果を得るためのツールに過ぎないからね。

それに、理屈を、「難しい、面倒くさい」と感じるのも
わからないではない。

でも、一見複雑に見える理屈も、ばらしていけば
とても単純で当たり前の原理・原則を組み合わせたものでしかない。

それなのに、横着こいて、まとめて一気に解釈しようとする。

だから時間がかかり、手だてが見えなくなる。
そして、手も足も出なくなるというだけ。

決して、一部の人にしか使いこなせない特殊なものではない。

さて、この理屈をどう使うのか。

たとえば、達人の動きの見方として使う。

え?

それが何かいいことあるのかって?

例を出そう。

現実に即した理屈にもとづいてそれを見る時と、
不合理な思い込みにもとづいてそれを見る時。

後で自分が上手く真似できる可能性が高いのはどっち?

考えるまでもないよね。
言うまでもなく、前者だ。

ところで、諸外国で「ヘビ」がどういうイメージで見られているか知ってる?

聖書にその謂れがあるからかなのかは不明だが、
どうもキリスト教文化圏(そんな言葉があるのか疑問だが、要は欧米諸国)の国々では、
ヘビはわりあい嫌われていることが多いようだ。

一方、別の原住民族の部落では神聖な生き物として崇められていることがある。

悪魔の使いとして忌み嫌われたり、神聖視されたり、
何だか忙しいが、この違いは何か?

これって結局、

それを何だと教えられ、何だと思い続けて来たか

によるわけだ。

それがどうしたのかって?

ドラムに関する動画や人の演奏を見る時も、
これがそのまま当てはまることが多い、ということなのだ。

以前に話した動画の話では、そもそも原理的に
「見誤る可能性が実は高い」ということを指摘したかった。

しかし、今回のは、仮に肉眼であっても見誤ることがあるということを
伝えようとしている。

その「見誤り」の、「大きな、それでいてよく見られる理由」というのが、
上で話したことなんだ。

ちょっと理屈っぽい話をすると、こんな感じになるかな…

脳には、既存の知識や感覚に基づいて、
不明な部分を補完する優秀な補正機能が備わっている。

しかし、時にこれが邪魔をするのだ。

はっきり言ってしまおう。

「棒はしっかり握って『振る』ものだ」と信じ切っている人は、
何を見てもそのように見えてしまうということなんだ。

そして、この人の動きは自分のイメージや感覚と少し違うな、と思っていても、
既存の思い込みから来る、極めて個人的な理論を補完することで納得しようとする。

いわゆる、「正当化(合理化)」の一種とも言えるのかも知れない。

その結果、見分けがつかなくなる。

何の?

たとえば、手首「を」動かしているのか?

何かの動きの結果、手首「も」動いてしまっているのか?

この違いがわからない。

しかも、「手首で振るものだ」という思い込みがある限り、
手首「だけ」に注目してしまう。

したがって、ますます違いがわかりにくくなる。

なぜなら、動きの原動力の違いは他の部分に現れるからだ。

そして、勘違いに基づく動作は、往々にして不合理なものにな る。

しかり、用いている理屈が違うので、
当然同じ結果にはならない。

それでも無理にやろうとするから、
最後はどこかが痛くなる。

そうなれば、当然練習をすればするほど、
関節やその周辺のメカニズムに負担を強いることになり、

ある日突然…故障がやって来る。

これは、場合によってはそれ以降、
ドラムを続けることができなくなるほど深刻なことがある。

詳しい話はここでは避けるが、関節・腱・靭帯を故障すると
次の故障を招きやすくなる。

また、何度も故障すればするほど、その部位の生理的限界は低くなる。

これが何を意味するかって?

練習が成果に結びつきにくくなる、と言ってる。
最悪、やればやるほど下手になる。

え?

なぜそんなことがわかるのかって?

答えは簡単。

俺がやってみたからだ。
そして、事実そうなった。

スケジュール組まれていたライブも、それに向けてのリハも、
ぜんぶゴメンナサイしなければならないほど、派手に故障したと言うわけだ。

こんなに努力したのに、何でだよ!って、頭に来たよ。
俺はドラムをやっちゃいけないのか?って、悲しくなったよ。

それに加えて、故障のメカニズムやそれがもたらす影響については、
著名な整形外科の先生にインタビューして確認したからほぼ間違いない。

だから、あなたには。

ほんのちょっとでいい。

理屈を毛嫌いしたり、敬遠したりせず、
わかるところから取り組もうとしてほしいんだ。

でも、理屈の奴隷にもならないように気をつけてほしい。
なぜなら、くだらない派閥や無駄な論争の元になるからだ。

そして今日はその取り組みのヒントを伝えておきたい。

ただし、その前に、ひとつだけ約束してほしい。

これから話す理屈を、最終的には「あなたの感覚」で感じ取り、
「あなたの言葉」で言い表すことを目指す、と。

なぜなら。

俺が話す理屈は言うまでもなく俺の言葉になっている。

自分で感じて確かめることをせず、うのみにすれば、
今度は「俺の言葉」が「あなた」の中で変形する。

そうなれば、遅かれ早かれ俺がやったのと
同じ結果を招いてしまう可能性があるのだ。

では、そのヒントを。

これは、ある人の言葉の引用だが、
簡潔でいながら、恐ろしく本質に迫った一言で、
俺自身がとてもしっくり来る言い方になっている。

だから、これを紹介しておく。

自然体では体はどのように動くのかを知り、それに従うべきだ

自然体とは…「スティックを持っていない状態」のことだ。

さあて、熱が出るほど考えてくれ。

この結論が得られた人は、技術的には間違いなく進歩するはずだ。
それも、それまでを遥かに超えるスピードで前進するだろう。

「めんどうくせえ。やってられるか」・・・そう思うのも結構。

それでも進歩するかもしれない。
ただ、今後ウチのサイトには来ない方がいい。

俺はこんなことばっかり書いてくつもりだから、
きっとムカつくことの方が多いだろうから。

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