練習 は何のためにするのか?
あらぁー、また大げさなことを書き始めてしまった・・・
例によってstvjrの「私見」を書き殴りますので
ムカつく予感がする方は早めにページを閉じてくださいませませ。
はい。まだご覧ですね?
では遠慮しません。
練習は何のため?
誤解を恐れずざっくり言えば、2つある。
ひとつは「現状維持のため」。
もうひとつは「現状打破のため」。
色んなところで見聞きする「できないことを出来るようにする」ための練習。
これ、基本的には賛成です。まったく異論はない。
これをやるおかげで進歩を実感できるし、進歩する楽しみを感じられるし。
コレに関しては、練習熱心な人は俺が何か言う前にすでに散々やっているだろうと思う。
でもね。
でも、それと同じぐらい力を込めて俺は言いたい。
「現状維持のための練習をした方がいい」と。
正確には「現状維持のため」というより「今できることの精度を上げるための練習」とでも言うべきか。
すでに出来ていることを、
復習のごとく、確認するがごとく、
再びやる。
進歩あるのみ、という観点からすると、「何でそんなことを?」と思うかもしれない。
でもね。
俺がすげえぇなって思う達人達。
みんなフレーズが歌ってるんだよ。
ただの連打でも、よくあるシンコペフレーズでも、歌う歌う。
彼らは、「手足が動くようになってからの練習」が半端ないんだと思うんです。
それまで動かなかった順番で手足を動かすようにする練習
=進歩のための練習を経て、その先がすごいんだと思うんですよ。
こんなフィーリングでやってみる、
こんな気持ちを込めてやってみる、
こんなニュアンスでやってみる。
このフレーズを機械ノリに合わせようと思ったらどうやればいい?
このフレーズをチョイ跳ねに載せようと思ったらどうやる?
エトセトラ、エトセトラ。
動くようになるまでは「エクササイズ」。
動くようになってからが「レッスン」。
これは、俺がたった一度だけレッスンをつけてもらった、今はなき師匠のせりふ。
レッスン部分抜きにしてもある程度は「しゃべれる」かもしれない。
でも、微妙ニュアンス、些細なフィーリングを表現したければ・・・
たとえば、あなたは「ありがとう」を何通りのニュアンスでいえる?
「ごめん」を何通りのニュアンスでいえる?
ほら。
その数があなたの「ありがとう」の適用可能な場面の数。
その数があなたの「ごめんなさい」の適用可能な場面の数。
その数が多ければ多いほど、歌える場面が増える・・・に決まっているよね?
それは、使い古された、使い慣れた言葉にどれだけ慣れ親しみ、
色んな場面に当て込んだり、色んな気持ちを載せてみたりした、
その積み重ねの上にあるのはもうお分かりと思う。
「ごめん」・・・・これはしゃべれるから、もういいや。
「ありがとう」・・・・これももういいや。
・・・っていったら、その言葉に載せられる感情もニュアンスも、そこでおしまい。
でも、すげぇ奴らって、その「ありがとう」が深い深い。
彼らの「ありがとう」を聞くだけで涙がこぼれてしまう。
それぐらい、人毎に違う微妙な「ありがとう」「ごめんなさい」を
身に乗せて発する経験を積んでいる。
音楽は生き様が出る、シンプルなルーツ寄りだとなおさら・・・というのはこの辺に理由があるんだと思う。
引き出しを増やすのも楽しいけど、引き出しの奥行きを深くするのも、楽しいもんですぜ?
お久しぶりでござりまする。毎回、楽しみに拝見いたしております。
stvjrさんのコラムは、最初に「ムカつく予感がする方は・・・」とあることが多いですが、
その内容はいつも逆で「丁寧」で「わかりやすく」「的を得て」いて、とても「 親 切 」な文章だと感心しきりです。
今回の内容を心底の理解出来た人は、その時点で今までより数段レヴェルアップすること間違いなしです。
何故なら、「そこ」に気づかないで「このフレーズが出来た(と思ってる)!」、じゃあ「次はこのフレーズ」・・・。を繰り返している人が本当に多いからです。
そして気が付いたら40代、50代・・・(私は50代も残すところ・・年)。
あとはお決まりのコースですよ。
何の向上心もなく、ただただ仲間内で酒の肴のためのバンドを自己完結で垂れ流し、刹那の歓びを永久と勘違いする・・・。
おっと!なんかこういう演奏者の方々を揶揄するような蔑んだ文章になってますね。
そうじゃありません。それはそれで誰に文句言われる筋合いのもんじゃありませんから。
でも、少なくとも「死ぬまで向上してやるんだぁ~!」と腹を括ったミュージシャンの方々に対しては、
しつこいですが、ここ(ありがとうの種類)に気づくか気づかないかだけで演奏の幅は格段に変わります。なので今回のこれを読んで「おぁ~~~!そうっかぁ!」と素直に気づき、または「最近忘れてたぁ」という方々、次回の演奏から即、意識してみてほしいと思った次第でござります。
今まで聴いていた音楽も違って聴こえてくるという特典も付いてきますので、一粒で2度おいしいかと・・・。^^
支離滅裂な乱文、、、失礼しました!
こんばんは、Iwamaさん。
いつもありがとうございます。
「このフレーズができた(と思ってる)」。
↑
爆笑しました。そうそう、そうなんです(笑)
細かいニュアンス的な部分もさることながら、たとえばニュアンス付けの常套手段である「音色・抑揚・音符の訛り具合・装飾のあるなし」。
この4つを考慮しただけであの「SYNCOPATION」は一生かかってもこなし切れない予感でいっぱいですw
手数はすごいけど歌ってない人はほとんどこれだったりしますね・・・
あ、これはこれでアリです。その人がそうしたいんですから!
ただ、私がそういうスタイルに興味ないっていうだけです。
それと、「一粒で二度美味しい」。
やはり、分かって下さいますね~
拙文から汲み取っていただけたようで、嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!
明神です。
言い換えると・・・
「道具箱に入れる大事な道具を買って増やすのも大事。
だが、今まで買って使った道具をメンテナンスしたり、より良く使えるよう自分の中での使い方を洗練させるのも同じぐらい、いやそれ以上に大事だ。
極端な話、錆びて使い物にならなくなった道具ばかり入っている”ガラクタ入れに近い道具箱”に対して、中身の整理もせず”恍惚とした顔で新品の道具を入れまくる人”を見てどう思う?」
・・・ってな感じでしょうか?
「使え、さもなくば失う」というのは本当ですね。
“本人の意志に関係なく”とも、腕が鈍ると鍛え直すのに苦労します・・・今それを痛感しているところですw
明神さん、ご無沙汰しております。
YES、その通りです!
もちろん、道具箱の中身を自慢しあうというカルチャーもあってよいし、
それを楽しみとするのは当然ありではありますが・・・
それよりも、
一見「え、中身、それだけ?」っていうぐらいの道具箱使って
「いったいどうやってあの仕事を???」と言わせるようなアウトプット出せる方が、
スゲェと思うし、
カッコいいし、
お客さんは喜んでくれるし、
マジカルだなー、
と「私は」思うわけです。
そして、それって年季・経験がものを言う。
生き様がもろに出ます。
「俺様が良い気分になるためにおまえら1時間ステージの前で人身御供になれ」との
見えざる一方的暴挙があるかと思えば、
「もてなしとサムアップ」や「気配りと喝采」の「めくるめく交換」の後、
「また来よう」という言葉なき約束が、そこかしこで生じていたりもする。
演る側も聴く側も、生き様が出てしまいますね。
私はもちろん後者が好きです。
前者?5分もちません・・・(^^;)
そうそう、使わなければ失います。
変化することが大前提の世界では、現状維持にすらコスト
(=資源=体力、気力、時間、エネルギー、お金など)を伴いますから。
体は、維持する価値のないものにコストをかけないようにできています。
(そうでなくては個体が崩壊するリスクが高まるからです)
使わない=維持する価値がない、という「個体維持機構」への「命令」になるんです。
体はそれを忠実に実行しているだけ。
使わない(=何もしない)ということがひとつの明確な選択なんですね。
あ、記事ネタがひとつできた。
ありがとうございます(^^)
次回の記事はこのコメントに触発されてできた記事と思ってください(^o^)
明神です。
料理もそれなりにできるのでw、そこからの体験談なのですが・・・
> 一見「え、中身、それだけ?」っていうぐらいの道具箱使って
> いったいどうやってあの仕事を???」と言わせるようなアウトプット出せる方が
老舗の和菓子屋の餡のレシピなんてまさにそれです。
凄く端折って言うと「小豆・水・砂糖・塩・水飴」、たったコレだけ。
しかし、大量生産の餡とは比べ物にならない程旨い。
更に、作る菓子によって餡を微妙に変化させてくる。
それは職人が行う長年の経験から磨き抜いた調理工程と微妙な調味料のさじ加減、本当にたった2つだけであまりにも広い味の幅を演出できる。その奥深さは音楽のマジックと同じ感じがするのです。
表面的に派手なのもそれはそれでカッコいいですが・・・一歩踏み込んで物事を習得しようとした際に見える「見た目に絶対現れない派手さ」。
長年、深く味わい続けられますよね。
明神
> 表面的に派手なのもそれはそれでカッコいいですが・・・
門外漢に注意喚起する場合には良いかもですねw
> 一歩踏み込んで物事を習得しようとした際に見える「見た目に絶対現れない派手さ」。
ある程度わかってる人を引きつけてリピーターになってもらいたかったら
ココを避けて通るわけには行きません!
「本当の実力」と「ホスピタリティ」はこの部分で勝負することになります。
この部分は派手さというよりもはや「凄み」というのがふさわしいような気もしますね。