「間違い」のまちがい。

誰かに、あんたは間違ってる!って言われちゃったあなたへ。

ごめんごめん。

この間の記事で「間違い」っていうのが出て来て。
言い出すと長くなるから省略する、「次で必ず書く」って言ったのに。

すっかり抜けちゃってたよ。ごめんね。

伝えたいことがあり過ぎて、先走ってしまったみたい。

なので、今日は「間違い」ということで話してみよう。

「正しい奏法」
「間違った奏法」
「正しい選び方」
「間違った感覚」
「正しい○○○」
「間違った○○○」

などなど・・・

もしあなたが。

こうした言葉に責めさいなまれて、「じゃあどうすりゃいいんだよ!」って
感じてることがあるなら、もしかしたらヒントになるかも知れない。

そうでないなら、例によって読み飛ばした方がいいかも知れない(笑)。
その立場にいないと、きっと得るものがないと思うんだ。

でね。

以下はあくまで俺の考えなんだけど。

自己啓発系の教材とか、ビジネスマン向けの雑誌とかで書かれるようになって、
まあわりと目にすることが多くなったある言葉がある。

知ってるかもしれないけど。

「唯一絶対の正解なんてない」

っていうセリフね。

確かにそう思う。俺的にも「間違ってない」と思う。
特に、音楽をやってれば尚更だ。

ただね。

これだけ言われても、救いにならない人結構いるんじゃない?
かつての俺がそうだったし。

俺達が気になってるのは

「自分が間違ってるかどうかをどうやって判断すればいいのか」

っていうことで、「唯一絶対の正解なんてない」なんていう一般論じゃないんだよね。

たとえば、じゃこの話のきっかけになった、
「仕入れた情報が間違ってるかもしれない」っていうことを例にしてみよう。

ドラムをやる上で、「このやり方がいいよ」みたいなことを教わった。
でも、「それが間違ってるかもしれない」っていう危惧だね。

ここでずばり言ってしまおう。

「間違い」っていう言葉がそもそも「よろしくない」。

たとえばね。

「あなたのやり方は間違っている」と言われたとしよう。
これって、何だかこう聞こえてこないかい?

あらゆる場所・状況でまったく使い道がなく、
益よりもむしろ害の方が多い、
時間や金、労力をかけて学ぶ価値の全く感じられないやり方…

と言われているように。

ま、そりゃ人によるとは思うけど。
こんな風に聞こえてしまう人は多いんじゃないだろうか。

その一方で、もちろんこういう人もいるだろう。

俺はそうは聞こえない。
自分が改善するべきポイントを教えてくれているのだから、感謝すべきだ

ってね。

そうできるなら大いに結構。いや皮肉でもイヤミでもなく。
批判を糧に変えられるメンタルスキルを持ってる人だと思う。

ただね。

こうした場面で使われる「正しい」「間違い」っていうのは、
俺から言わせればあまりに意味が広すぎる。
そして、強すぎるんだよ。

だから人によっては、全人格が否定されたように感じてしまうことがあるんだ。

あらゆる場面・状況・時期に適用できる、普遍的な意味で
「正しい」「間違い」と言えることって、そうそう多くあるもんじゃないと思うんだ。
(もちろん、まったくないわけじゃない。少ないけど、確かにそういわざるを得ないことがある)

じゃ、それ以外の「正しい」「間違い」っていうのはどういうことなんだろう?

実はこれ…

前提が抜けているんだよ。

あることがらは、ある場面では歓迎されるべきことだった。
これを人は「正しい」と言う。

逆に別のある場面では多くの人がふさわしくない、と思った。
これを「間違い」って言ってるだけなんだよね。

そう、「どの場面で」という前提が抜けてる。

たとえばね。

ドラムの奏法で最近「脱力、脱力」言われているの知ってるかな?

何かって言うと、「脱力」。

いや、勘違いしないように言っておくと、
基本的には俺も「脱力」は賛成だよ。

普段はそうやって演奏してるし。
学ぶだけの価値があると思ってるよ。

でもね。

だからって、「しっかり握って力の限り叩きつける」ようなやり方は「間違い」なの?

いいや。断じてそんなことはない。
少なくとも俺はそう信じる。

耳をつんざくような破壊的な音は、
優しく感傷的なバラードには合わないかもしれない。

ソフトで輪郭のぼけた音は、
スクエアで畳み掛けるような激しいロックには合わないかもしれない。

でも、「間違い」ではないよね。
「ふさわしくないと感じられることが、現時点では多い」って言うだけの話だ。

多くの人は違和感を感じるかもしれないけど、
そこから新しい別のやり方が生み出されることがあるから。

はじめて傘をさして雨をしのいだ紳士は、最初大衆から笑いものにされたんだよ。
でも結果はどうなった?

地動説を唱えたコペルニクスは、火あぶりになってしまったんだよ。
でもより真実に近かったのはどっち?

物事が進歩する時って、だいたいどっちかだ。

漸進的に改善されて行く場合。

そして、もうひとつは正反対の方向からアプローチする場合。

後者は、それが生み出される過程では多くの人から
「非常識」「異端」などと批判されることがとても多い。

これはある意味残念だが、歴史を見れば明らかだろう。

ね。わかるかな。

何かを間違いと言ってしまうと、
こういう物事の進歩を止めてしまうことがあるんだよ。

物事だけじゃない。

人の進歩成長も同じだ。

他人の批判を恐れて踏み出せないところに、
あなたにとっての正解があったら、どうするの?

あなたが批判を恐れてそこに向かわず、
結局はそれを取り損ねる結果になったとしても。

批判した連中は責任を持たない。絶対にね。

いや、というよりも。
責任の持ちようがないんだよ。

だって、彼らは、彼らの感覚で「違和感を感じた」と言っていただけなんだから。

もう、わかったんじゃないかな。

誰かに「間違い」と言われたとしても、それはあなたを否定してるんではない。

あなたのやり方にその人が今違和感を覚えている、
と言ってるだけなんだ。

「間違ってる」という言葉は、ものすごく「普遍的」な言葉に聞こえるけど、
その実はその人固有のパーソナルなものであることがとても多いってことだ。

その人がそう感じるものをそれこそ「間違い」だということもできないでしょ。

だから。

あなたが考えた結果なら。
あなたの中から聞こえてくる直感が示すものなら。

だれが間違いと言おうと、言わせておけばいいんだよ。
だれかが「間違い」ということだって、その人の自由。

そして、それを「無視」するのも、「影響され、束縛される」のもあなたの自由だ。

これが、俺なりの「間違い」という言葉との付き合い方。

まとめよう。

間違いというのは、それを言った人が不適切とか違和感を感じてるだけのこと。
正しいと言うのは、それを言った人がふさわしいとか好ましいって感じてるだけのこと。

まったくもって普遍的なものではない。
だれかがマルとかバツをつけられるようなものじゃないんだよ。

大切なのは、誰の基準で選んだのか、っていうことだ。
あなたの基準で選ぼうよ。

そして、その時点で…

あなたの個性がすでに発揮され始めているってことに
気が付いてほしいな。

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